医療・介護のご案内

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西都保健生活協同組合 
「たぬきのひとりごと」

トトロイズム 私の仕事を 生協らしいものにするために

カップヌードルと瓜二つのコープヌードルという商品があります。ラベルを貼り替えただけのようですが それは 立派に コープブランドに生まれ変わっています。購買生協ではおそらく カップ麺を誰がどういう場面で食べるのか。一体 カップ麺にはどんな歴史があるのか。『食』は 人生/世界/地球の中で どういう位置付けなのか。それらを自分自身に問い 理解し コープブランドとして確立しているのでしょう。一方で 果たして私自身は医療・介護についてそれができているのか心配です。『患者』を相手に 指導して 体操させ 点滴をして 浣腸して 薬をのませる。誰かが作った考えと道具を そのまま売っているだけになっていやしないか。それが何か問題なのか。そういうわけではないのです。でも 世界は今 平和でしょうか。今のままで 平和な世界が作れるのでしょうか。私たち 医療福祉生協は 何のためにあるのでしょうか。

北多摩クリニック所長  保坂 幸男

みなさんは今日が素晴らしい一日だったと 感じていますか ?

今日という日は 私にとって素晴らしい一日だったのか。Yes. よかった。でも 地球上の すべてのひと すべての生きもの すべての,,,にとって素晴らしい一日だったのか。誰かが嘆き悲しんでいる姿を想像したら 感じた幸せも 虚しいものになってしまいます。私には関係ない。じゃあ どうしたら良いというのか。当事者意識を持たずに自分のことだけ考えている時には 周囲も私に無関心なままのはず。一人が万人のため 万人が一人のためという意味と意義はここにあるのでしょう。

昨日とは違う時間をつくり 世界中に幸せをつくる そのための一日をつくる意識を持つことで 昨日より今日今日より明日が 幸せに近づく 希望に満ちた わくわくした時間になりそうです。私たちの手は 武器を持つためではなく 誰かと握り合うためにあります。私たち 医療者は 手を握り合い 温かさを感じ合い 誰かの笑顔をつくり そして私たちもえがおになることができる 幸せな職業です。そのことを心に 沢山の方と 手を握り合い幸せをつくる。そのためには 思い込み(常識)と 組織の壁を捨て co-operation することが大切です。

 

 

木を植えた男にみる善きものを標準化する危険性 と となりのトトロ にみる みんなちがってみんないい

木を植えた男というアニメ(ジャン・ジオノ原作 フレデリック・バック監督 アカデミー賞受賞作品)があります。どんぐりを集め選別し 植えつづける男。そのうちの1割程しか育たないナラの木。それでもこつこつと植えつづけることで 大きな森をつくります。ハチ鳥の一滴的な飽きない勇気のある行為に注目が集まる話と捉えられることが多いのですが 私はそれだけではなく ナチスドイツに対する皮肉も感じます。

みんなで 善きもの 便利なもの 楽なものとして 『あるべき姿』を求めることは そこから外れたもの/姿を否定することにつながってしまう可能性があり 『標準化』することの無意味さと危険性が露呈します。

みんなが希望するぴんぴんころりするのは 日本人の20人に一人程度です。人生を常識の中での健康な姿で終えられる方は少数です。私たちは生まれた瞬間に 致死率100%の難病にり患し 元気に見えたとしても さまざまな心身の症状や 社会との葛藤を抱えながら障碍者として生きています。

目に見える障碍があってもなくても そのひと それぞれ その時々に 変化した幸せの形があるととらえることはできないか。と考えた時 特に医療・介護の場では あるべき姿を目指し 『健康』なのが当たり前 症状のない状態が当たり前 便利なのが当たり前であり 『不健康』や症状や不便が許されざるもの とするのではなくその対応の仕方も含め もっと自由になることができます。

これは これも愛 あれも愛 たぶん愛 きっと愛 という水中花的思想(五木寛之)。みんな違ってみんないい という 金子みすず的思想です。となりのトトロ(宮崎駿)では どんな どんぐりも 芽が出るように力を合わせて楽しく応援し 小さな木々がやがて大きな樹を作り上げます。どんな些細な仕事であっても そこにある意味を つなげて大樹をつくり 森をつくる平和チームとしての意識を感じます。

医療福祉生協として いのち/人生/QOLについて どう考えるか。私たちが 仕事として何をなすか 大きなヒントがここにありそうです。

 

 

地域を病棟化し医療の中で患者としてみることでよいのか

ひとを 医療の中に引き込んで 患者として診る/看ることは 本当に自然なことなのでしょうか。風邪をひいたら感冒薬を飲むことを当然と考え 医者がいないと死ねないと思い込むことは医療の中で生き 死ぬ 不自由な状態ではないでしょうか。今ある日本の医療は 数十年程度の歴史しかないのです。この間私たちは 進む医療技術を使うことに満足し 何か大切なものを置き忘れていなかったでしょうか(そういえば となりのトトロのキャッチフレーズは「忘れ物を、届けにきました」でした)

以前 どろどろの流動食を 注射器を使って経鼻胃管に注入しているのを見て 鳥にえさをやっているようだ。人間の尊厳は云々と云われることがありました。現在は きれいな栄養剤(医薬品)がありきれいな容器から 点滴のように流れ落ちる様は 確かに見た目に洗練されて映ります。ただ 見た目の変化を 本当に『尊厳が尊重』されたと捉えてよいのでしょうか。流動食はたとえそれが えさに見えたとしても どんなのがいいのかなぁと 大切な家族のことを考え 栄養を考えて 手間をかけて作った 思いのこもったものでした。一方で 既製品の栄養剤は封を切り容器に流し込むだけのものです。考えようによっては それこそペットショップで購入する鳥のえさ/ドッグフードと違いはないかもしれません。忙しい朝にはインスタントコーヒーで済ますこともあれば 余裕の朝には 焼き魚と卵焼きで ゆっくり楽しむこともあるように 既成の栄養剤に拘ることなく 時間のあるときには 手作りで用意してみることも大切ではないのか(栄養剤を否定しているわけではないです)。

便秘のとき 定期的に浣腸をすることで 確かに 一見 介護負担は軽減できる。でも食事内容に配慮し身体を動かすことで お薬を使わずに排便を促すことも大切でしょう。介護負担を軽減することだけを目指すのではなく 大変さを共有することもまた 尊厳を支えることでしょうし 次の世代へつながる 体験・知恵にもなるはずです。

10数年程の歴史しかない在宅医学が 次第にアカデミックな影響を帯びつつあります。生活・人生に根ざし 援助するためのものであるはずの在宅医療・介護が今のままでは 将来 ますます専門家のものになり『あるべき姿を求め標準化』され 地域を病棟化し 医療の中で患者として生かす 医療の中で患者として死なせることに終始するようになりかねないと考えます。まだまだ在宅医療が 十分に浸透していない今こそ 人生/生活を 医療の中に引き込まないようにすることも大切かもしれません。

『踊る大捜査線』というドラマの中に 青島刑事の『事件は会議室で起こってるんじゃない 現場でおこってるんだ』という名セリフがありますが 『生活は 病室や診察室にあるんじゃない お家にあるんだ』 ということでしょう。

 

人生/生活の視点をもつことで尚更に その背景にある様々な社会的決定要因もまた良く見えてきます。視野を拡げ これまでとは違う視点も持ちながら 『らしく』 地域(世界・日本・東京・清瀬)や 医療・介護を 私たちがどう作っていくか 一緒に考えていきます。