医療・介護のご案内

イベント

-

QRコード

QR code

西都保健生活協同組合 
「たぬきのひとりごと」

かかりつけ医によるがんや老衰になる前、、、その3

まだ つづきます

死ぬために生きているわけではないのですから どういう最期を迎えるかだけでなく どう生きるのか 生きて何をしたいのか を問うていきたいと思います.

まあ ある程度の年齢になった方は こちらから問わなくとも 意思表示されることが多いのですが それが 終末期を理解し考えた上でのものか疑問はあって 都合良く 安楽な方法を選択しているだけかもしれない。この選択は 周囲との関係性の中で 変化する可能性もありますし 一方で 高齢になると 家族等との関係性が硬化することで 選択の幅が狭くなっていやしないかと。つまり 全く 在宅医療をしていない診療所では 最期は入院したい と言うかもしれませんし 嫁さんとあまり仲良くない方は 家に居たくないというかもしれません。こちらの懐を深く広くして 問うことで また違う答えも引き出せるかもかもしれないと思います。

例えば お互いに ひととして良く知りあい 一緒に想像した その先に 私たちが 死亡診断書を書きたい とか この医者に死亡診断書を書いて欲しい という積極的な関係も ありかもしれないと考えています。

 

 

種々 介入するにしても 介護保険のコンプライアンスがしばりになってしまいます。ですから 今のところ 困難としかいいようがないのですが 今改めて 大切にしたいのは 私たちが守るべきは 制度か 目の前の利用者か という根本的な問いを私たち自身がすることと考えています。

 

本人・家族には 我慢するな 頑張りすぎるなという 一方で医療者/介護者も みんな頑張らざるをえない矛盾がありますので 医療者/介護者のQOLの向上についても考えたいものです。

 

この6月から 地域の特養からの依頼で 施設看取りの援助も始めていますが そのために重ねた話合いや 書類の整備 職員への教育働きかけが 在宅医療における チーム結集の参考にならないかなと考えています。

 

ご近所関係が薄まっている東京では 近所の方にボランティアとして お願いするにしても 声かけ ゴミ出し程度であれば まあ よいのでしょうけれど ヘルパーさん代わり 家族代わりのお願いは 不満が出てくることがあって 必ずしもうまくいかない場合もあります。村社会を再構築することも必要かもしれません。学生 だとか 若い人を 教育の視点で 活用していくことで 団塊の世代が 大量に亡くなる頃には 役に立つ人材としていけるかもしれないとは 思っています。

 

 

かかりつけの 物語を良く知るチームが その思いを持って マネジメントするということでしょうか。かかりつけの役割りは 診療所/病院ではなくとも 訪問看護ステーションが その役割りを果たせるかも知れませんし 居宅支援事業所が果たせるかもしれません。そこに 新しい訪問看護師像や 新しいケアマネージャー像を作れたらいいなと考えています。

 

北多摩クリニックでは できるだけ早期に介護申請をし 相談先としてのケアマネージャーを用意して 介護難民にならないようにする?なまはげキャンペーンも 全国に向けて発信しています。 今日は秋田からの参加がないのが残念ですが 詳しくは 北多摩クリニックHP上でご覧下さい。

http://www.saito.coop/staticpages/index.php/kitatama_cl_namahage

http://www.saito.coop/staticpages/index.php/kitatama_cl_namahage_practice

 

また 適正な介護保険認定をうけられるように ケアマネージャーから医師への情報提供書も 作成しています。

http://www.saito.coop/article.php/20090712111150732

 

本人/家族も生活者としての人生を大切に考え医療をどのように位置づけるかということも 問うていく必要があるでしょう。

 

 

 

北多摩クリニックでは 死生学プロジェクトを立ち上げ 昨年は映画「犬と猫と人間と」を題材に市民公開講座も開き いのちについて考えました。そのときのリーフに載せた文章です。終末期について意志表示のできない方の代諾や 家族観について 考える場面で こういう題材もあるというのを 紹介します。

 

北多摩クリニックでは、かかりつけ医として、看取りの援助をすることがあります。その中で時に感じるのは、「入院」という言葉で表される医療というものが、必ずしも、治療や症状緩和の手段としてだけ、とらえられているわけではなく、多くの方は、「死は医療の中にあるべきもの」と考えているらしいことです。

病棟は、私たち医療者にとってホームでも、利用者にとってはアウェイです。家は、利用者にとって、最初からその方のあるべきホームであり、安心なはず。では、何を期待して、アウェイである入院を選択しているのか。案外、利用者にも医療者にも、はっきりとした答えがないのかもしれません。姥捨て山伝説には、生死と正面から向き合う姿勢がありますが、問題を解決できるわけではない場面での「入院」は、死を医療の中に閉じ込め、まやかしの安心感を得ているだけかもしれません。その意味で「入院させれば安心」が、本当の姥捨てになってはいないでしょうか。

「生と死の教育の場」でもあった多世代同居、村社会が少なくなり、8割の方が、病院で最期を迎えることもあり、「人の死」を想像しづらく、死と死にゆく人は、身近にあってはいけない時代になっているようです。核家族として長期間、離れて暮らすうちに、心の距離が生まれ、大切であるはずの肉親の死にさえ責任をもちたがらない方が多い印象もあります。

一方で癒しをもたらすペットは、自らの腕の中に、いのちの終わりまで守るべきものとしてあり、家族感の薄れた肉親よりも身近にいる動物たちの、その小さないのちを通して、人の死も想像できるかもしれません。

大切な家族であるペットを、腕の中で優しく包み看取ることができるのであれば、大切な人も、手を握りながら、家庭で最期を迎えさせてあげられるのかもしれません。